大判例

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最高裁判所大法廷 昭和28年(あ)1126号 判決 1957年2月20日

主文

原判決を破棄する。

本件を高松高等裁判所に差し戻す。

理由

弁護人永田安吉の上告趣意第一点について。

刑法二〇〇条にいわゆる「……配偶者ノ直系尊属」とは、現に存する配偶者の直系尊属を指すのであって、配偶者が死亡し配偶関係の存在しなくなった後も、なおその直系尊属との関係を認める趣旨でないと解するを相当とする。従って本件のように夫が死亡した後、亡夫の直系尊属たる父母を殺害しようとした行為は、刑法一九九条を適用すべき場合に当り、同法二〇〇条のいわゆる尊属殺の行為には当らないといわなければならない。

刑法二〇〇条が、いわゆる尊属殺を普通殺人と区別し、特に重刑を定めたことが、憲法一四条に違反しないことは、当裁判所大法廷の判例とするところである(昭和二五年(あ)第二九二号同年一〇月一一日判決、集四巻一〇号二〇三七頁。昭和二四(れ)第二一〇五号同二五年一〇月二五日判決、同上二一二六頁各参照)。そして右判例の趣旨は、親子の関係をもって、人倫の大本、人類普遍の道徳原理の上に立つものとし、これを律する関係はこの原理に基いて確立した法秩序であって、新憲法の下においても否定せらるべきいわれはなく、従って子の親に対する殺人について特に重刑を定めた刑法二〇〇条の存在の意義もまた否定せらるべき理由がないというに帰する。そしてこの理によって、配偶者が互いに夫婦として存続するかぎり、その一方と他方の直系尊属との関係も、本来の親子関係に準じて重視するを当然とし、これについても同じ重刑を科することを正当と認めるものと解することができる。

ところで本件のように夫が死亡した場合、その直系尊属と生存する妻との関係についても、なお、配偶者双方が生存している場合と同様に見ることができるかどうかを、まず改正前の民法の規定について考えてみるに(刑法二〇〇条は現在と変らない)、その七二九条二項は、夫が死亡しても妻が夫の家に在るかぎりは亡夫の血族との姻族関係は消滅しないが、妻の去家によってこの関係は消滅するという趣旨を定めている。このように去家の有無によった改正前の民法の法意とするところは、妻は夫の死亡によりすでに配偶関係はなくなったのであるが、妻がなお亡夫の家に在るという関係を尊重し、その間だけ亡夫の血族との関係を継続せしめる趣旨であって、その基くところは、もっぱら当時の厳格な存在であった「家」の制度にあったと見るのを相当とする。従って夫の死亡した場合において妻と亡夫の直系尊属との関係については、配偶者双方が生存している間の右関係を本来の親子関係に準じて重視するのと同列に考えることはできない。されば、すでに「家」の制度の廃止せられた現行憲法の下においては、改正前の民法の解釈としても、妻がなお亡夫の家に在る間だけに生ずる姻族関係によって、亡夫の直系尊属に対する関係を刑法二〇〇条の適用ある場合に拡張する理由はきわめて乏しいといわなければならない。しかるに現行民法七二八条二項は、夫婦の一方が死亡した場合、その血族と姻族関係を存続させるかどうかを生存配偶者の意思にかからしめたのであるが、この趣旨はもっぱら生存配偶者の感情、境遇又は親族関係に対する判断等を尊重し、いずれを採るかをその意思の自由に委したものと解する相当とする。それゆえこのような生存配偶者の意思によっていずれとも定まる関係にある場合において、道義的感情の問題は別として、妻と亡夫の直系尊属との関係に本来の親子関係と同様な重罰規定を適用すべき合理的根拠はなく、従って妻の意思によって姻族関係が存続する場合でも、この一事をもって、直系尊属との関係に刑法二〇〇条の適用があると解するのは、同条のよって立つ本義に副わないというそしりを免れない。そしてまた刑法は民法とその性格、目的を本質的に異にし独自の使命を有するのであるから、民法上姻族関係がなお存するからといって刑法二〇〇条の直系尊属の解釈についてまで両法が常に必ず一致しなければならないものではない。されば本件被告人の場合、民法上姻族関係の存するにかかわらず、亡夫の父母との関係については、刑法二〇〇条の適用がないと解するを相当とする。

またこれを文理の面から考えてみるに、刑法二〇〇条は単に「……配偶者ノ直系尊属……」とのみ規定し「配偶者タリシ者ノ直系尊属」を当然含むと解すべき直接の根拠は認められないのみならず、かえって立法の多くの事例において、法規が「配偶者タリシ者」というような過去の資格身分地位等をも含める場合は、直接その趣旨を明示する方法を採っていることが認められる(例えば刑法一九七条の三・三項、刑訴法二〇条二号、同一四四条、同一四五条一項一号二号、同一四七条一号、同一四九条、民訴法三五条一号、同二八〇条一号等)。そしてまた刑罰法規の解釈は、特段の理由のないかぎり、たやすく文理を越えることを許されないという要請は、本件のように特別な重刑を規定した刑法法条の解釈については、特に尊重され格段の考慮を払われなければならないのである。かかる観点から文理に即していえば、刑法二〇〇条の「配偶者ノ直系尊属」という立言は、現在の配偶者の直系尊属の意と解するのが当然であり、これをさらに「配偶者タリシ者ノ直系尊属」を含む意にまで拡張することは、特段の理由のないかぎり許されないことは明らかである。

以上説示のとおりであるから、刑法二〇〇条の解釈に関する所論は正当であり同条を適用した原判決は違法であって、右弁護人のその他の論旨並びに被告人の上告趣意について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。

よって刑訴四一一条一号、四一三条により原判決を破棄し、本件を高松高等裁判所に差し戻すべきものとし、主文のとおり判決する。

この判決は裁判官真野毅、同小林俊三の補足意見並びに裁判官田中耕太郎、同小谷勝重、同斎藤悠輔、同池田克の反対意見があるほか全裁判官一致の意見である。

本件に対する裁判官真野毅の意見は次のとおりである。

わたくしは、結論としては多数意見と同様に、原判決を破棄し、事件を高松高等裁判所に差し戻すを相当と考える。わたくしの見解によれば、尊属殺傷に関する刑法の規定(二〇〇条、二〇五条二項)は、法の下の平等の原則を定めている憲法に違反し無効であるから(その詳細は昭和二五年一〇月二五日大法廷判決中の少数意見として述べておいたとおりである。判例集四巻一〇号二〇四一頁以下参照。)、刑法二〇〇条を適用処罰した第一審判決を是認した原判決は違法であり破棄さるべきものである。(なお憲法論を離れて、単なる法律規定の解釈としても、多数意見と同様に本件の場合に刑法二〇〇条の適用を是認した原判決は、違法であるといわなければならぬ。本件において被告人は、夫の死亡後夫たりし者の両親に対して殺人未遂の犯行をしたというのである。刑法二〇〇条においては自己又は配偶者の直系尊属を殺すことを処罰し、同二〇三条においてはその未遂罪を処罰している。ここに「自己又は配偶者の直系尊属」というは、自己の直系尊属又は配偶者の直系尊属の意義であることは明白である。そしてこの直系尊属の直系とは、二人の間の血統が直上直下する関係において連絡する体系をいい、尊属とは血統において自己の父母より同列以上の者を指すのである。それ故、直系尊属とは、父母、祖父母、曽祖父母というがごとく、自己の血統がさかのぼって直上する関係において連絡する者を指称するわけである。罪刑法定主義の憲法原理からいって、刑法二〇〇条において特殊の犯罪とせられ重く罰せられるのは、かような直系血族たる尊属(自己又は配偶者の)を殺す場合に限らるるものと言わなければならぬ。少数意見では、刑法二〇〇条にいわゆる「自己又は配偶者」と「直系尊属」との関係は、もとより法律上の関係であって事実上の関係ではない、と主張する。が、この両者の関係は、前に述べたように血統という厳然たる血のつながりの事実関係であって、それ自体は法律上の関係ではない。この血のつながりの事実関係に対して、何らかの法律効果を定めることによって、はじめて法律上の関係を発生するに過ぎない。刑法二〇〇条は直系尊属(自己又は配偶者の)という血のつながりの事実関係を対象として、尊属殺重罰の法律効果を定めたのである。だから、尊属殺重罰の法律規定の適用があるためには、直系尊属という血のつながりの事実関係が現存することを要件とする。

男女は、婚姻によって配偶関係を生じ、互に他の一方の配偶者となるが、離婚又は他の一方の死亡によって婚姻は解消し、配偶関係は当然消滅し、離婚の場合の両当事者及び他の一方の死亡の場合の生存配偶者にはもはや配偶者は存在しない(だから、他人との婚姻も自由である)。かように右生存配偶者の現状においては、配偶者はないのであるから、配偶者のないところに配偶者の直系尊属のありえようはずもない。これは論理の明白な当然の帰結であるといわなければならぬ。だから、本件において被告人の亡夫楽夫の両親は、被告人との姻族関係が存続すると否とにかかわらず、刑法二〇〇条にいわゆる配偶者の直系尊属には当らない。従って、被告人の本件行為に対しては、尊属殺重罰の規定を適用すべき犯罪構成要件を欠くものというべきである。

次に、少数意見は、「配偶者の一方が死亡しても姻族関係が継続する限り、死亡配偶者の直系血族は生存配偶者の直系姻族であって生存配偶者の直系姻族たりし者ではない。刑法二〇〇条の「直系尊属」中に生存配偶者の直系姻族の関係にある尊属を含むものと解すべきこと正に当然の事理である。」といっている。が、この表現は、意味がはなはだあいまいである。すなわち、その意味は、配偶者の一方が死亡した場合の生存者を主体として、(一)刑法二〇〇条にいわゆる自己の直系尊属の中に、生存配偶者の直系姻族たる尊属を含むというのであるか、(二)配偶者の直系尊属の中に、生存配偶者の直系姻族たる尊属を含むというのであるか、(三)亡夫の両親のごときは、自己の直系尊属でもなく、配偶者の直系尊属にも当らないが、生存配偶者との間に姻族関係が存続する限り、生存配偶者の直系姻族たる尊属として刑法二〇〇条を適用する場合の中に含まれるというのであるか、そのどれに当るのか明確を欠いている。が、その何れの意味に解しても、わたくしには正しい考え方とは思われない。まず、(一)の意味だとすれば、自己の直系尊属とは、前にも述べたように民法上は自己の直系血族たる尊属のみを指すのであって、自己の直系姻族たる尊属を含むものではない。刑法二〇〇条の場合もこれと同様に解すべきものである。(二)の意味だとすれば、配偶者の直系尊属とは、民法上は配偶者の直系血族たる尊属を指すのであって、自己の直系姻族たる尊属を指すものではない。刑法二〇〇条の場合もこれと同様に解すべきものである。配偶者の一方の死亡によって、姻族関係の存否とはかかわりなく配偶関係は消滅し、配偶者はなくなり、従って配偶者の直系尊属も存在しなくなるわけである。刑法はどこまでも配偶者の直系血族たる尊属を対象としているのであって、自己の直系姻族たる尊属を対象としているのではない。この二つの概念は異る。互に重複することが多いが、本件の場合及びその他にも差異を生ずることがある。例えば、夫の前妻の子が後妻を殺し、又は妻の連れ子が後夫を殺した場合には、何れも自己の直系姻族たる尊属を殺したことになるが、配偶者の直系尊属を殺したことにはならないから、これらの場合には尊属殺重罰の規定の適用はない。少数意見は、刑法二〇〇条が犯罪構成要件として規定している「配偶者の直系尊属」を強いて「自己の直系姻族たる尊属」とすりかえようとするところに非常な無理がある。次に、(三)の意味だとすれば、自己の直系尊属でもなく、配偶者の直系尊属でもないが、直系姻族たる尊属として刑法二〇〇条の適用を受けるということになり、それこそ罪刑法定主義の憲法原理に反することは明らかである。けだし、刑法二〇〇条は、自己の直系尊属又は配偶者の直系尊属を殺すことを犯罪構成要件としているのであって、自己の直系姻族の関係にある尊属を殺すことを犯罪構成要件とはしていないからである。もし少数意見のようにこの後者をも処罰せんとするには、罰条は端的に「自己の直系尊属又は直系姻族たる尊属」を殺すことを犯罪構成要件として規定されたであろうし、またされていなければならない。元来婚姻の結果として、配偶関係と姻族関係が発生するが、配偶者の一方の死亡によって原因たる婚姻が解消すれば、結果たる配偶関係は当然消滅する。同時に結果たる姻族関係も消滅せしめるのが本来理論上正当であるが、民法は生存配偶者が姻族関係終了の意思表示をするまでは、姻族関係は存続するものとした(民七二八条二項)。しかし、婚姻においては、人間生活の基本態型であり、他の親族よりも親密な結合関係である配偶関係が主であり第一義的であって、姻族関係は従であり第二義的であるに過ぎない。すでに主たる配偶関係が消滅した後に至っても、従たる姻族関係の存続を理由として、法定されている「配偶者の直系尊属」と自己の直系姻族たる尊属を同一視し、罰条適用の範囲を拡張しようとする見解は、罪刑法定主義に反するものと言わねばならぬ。少数意見は、多数意見の見解をもって、刑法において民法の規定するところと異った解釈を採るものだと非難するが、多数意見は本件の場合に姻族関係従って親族関係が民法上存続していることを、刑法の解釈として否定するわけではなく、却って姻族関係の存続を認めつつ、それだけで刑法の「配偶者の直系尊属」という要件には当らないとしているに過ぎない。されば刑法の解釈が民法の規定と異るという非難は、全く当をえないものである。

事を少しく実質的に考察しても、改正民法の下においては、直系血族及び兄弟姉妹は、互に扶養をする義務があるが(民八七七条一項)、姻族関係を有するだけでは法律上当然に互に扶養をする義務をもたない。また直系血族及び兄弟姉妹は相続人となる権利を有するが(民八八七条ないし八八九条)、姻族関係を有するだけでは相続人となる権利をもたない。これらの事例を見ても民法親族法及び相続法の上で、傍系血族である兄弟姉妹の関係は、直系の姻族関係よりもさらに親近に、そしてはなはだ重く取り扱われている。言いかえると、直系であっても姻族関係は、傍系血族である兄弟姉妹の関係よりは疎遠に、そしてはなはだ軽く取り扱われている。

さらに一体民法は、現存の姻族関係(直系傍系を含めて)に親族という抽象的な名称の外にどれだけ特別の法律効果を具体的に与えているのであるか。それは、姻族間には法律上当然の扶養義務があることを認めず、ただ家庭裁判所は、特別の事情があるときは、三親等内の姻族間においても扶養の義務を負わせることができるとしているに過ぎない(民八七七条二項)。この家庭裁判所が特別の事情を斟酌して裁量で定める扶養義務の設定だけが、現存の姻族関係から発生する唯一の法律効果である(直系姻族間の婚姻禁止は、姻族関係が終了した後にも共通している。民七三五条)。現存の姻族間の関係は、ほとんどすべてが道徳の支配にまかされており、民法の定めている法律効果は、僅かに前述のものただ一つだけである。しかも、その一つも直系姻族と傍系姻族について取扱の区別があるのでもなく、また直系姻族たる尊属と同卑属との間においても取扱の差等はなく全く一様に相互的の関係とされている。かように解剖してくると、少数意見が観念論的に力説する直系姻族たる尊属の実態は、洗ってみれば今日の民法でははなはだ影の薄いものになっている現実を、直視することが何よりも必要かつ大切であるといわねばならぬ。これが民法の偽りなき真の姿である。

ところで、刑法二〇〇条はこの親近な関係にある血縁の兄弟姉妹を殺しても、(また血縁の尊属である伯父、伯母を殺しても)、その適用がないことは明らかである。これと比較し、配偶者の一方が死んで主たる配偶関係が消滅し、従って配偶者の直系尊属と呼ぶべき者が法律上もはや存在しなくなった現状において、そして血につながる血族関係は切っても切れないのに反し、今や生存配偶者が自己の一方的の意思で思うがままに何時でも容易に姻族関係を終了させることができる現状において(民七二八条二項)、ただ疎であり従であり民法上影のうすい姻族関係が存続しているというだけの理由で(民法学者も、配偶者死別後の姻族関係は無意味だと思われる、とまでいっている。我妻・立石親族法相続法三六頁以下)、直系姻族たる尊属を殺したことに対し、刑法二〇〇条の重罰規定を適用せざるべからざる真の必要性と妥当性がどこに存在するであろうか。普通の殺人罪の規定を適用するので十分事足るではないか。今日の刑法では、法の下における平等の思想を基調として、天皇に対して同様の犯行をなした場合においても普通の殺人罪で処罰することになっている。憲法における民主主義の基盤は、平等相互的な横の関係における個人の人格の尊重にあるから、個人が個人を殺すこと自体こそが、最大の悪事であり、最も重い道徳律背反である。もちろんこれに対しては厳として殺人罪の規定があるのである。(英米法は一般に直系尊属殺に対して重罰を定めていない。スイス刑法その他多くの近時の立法例もそうである。ドイツでも一九〇九年の第一次草案以来一貫して尊属殺を廃止していたが、一九四一年の改正で直系尊属殺に対して重罰を定めなくなった。同改正前においても直系姻族たる尊属殺に対しては重罰を定めていなかった、と記憶している。)要するに少数意見は、従来の「家」制度的良風美俗の見地をぬけきらず、いたずらに封建思想的な上下の系列である縦の関係として卑属の直系姻族たる尊属に対する道徳を観念論的に漫然と強調するのあまり(かかる道徳律は道徳律として別に保持さるべきであるが、法律の強制力という権力によって保持さるべき性質のものとは考えられない。)、生存配偶者に姻族関係の存続することをあまりに重視して、直系尊属殺重罰の規定を適用すべき旨を主張するのであるが、わたくしは刑法のかかる解釈こそは、却って前述した民法の真の姿に反し、直系姻族関係を傍系である兄弟姉妹の関係よりも軽視している民法との均衡と調和を破るものであるのみならず、根本的には上述のように罪刑法定主義に背反するものであると信ずる。

裁判官小林俊三の補足意見は次のとおりである。

前記多数意見の判示になお次のような私見を補足したい。

本件のような場合と事案を異にし、まず配偶者を殺害し次で配偶者の直系尊属を殺害したような場合をいかに解すべきかにつき、多数意見を非難する批判がある。しかし当裁判所判例は「妻を殺害したのと同一機会に、殺意をもって妻の母にも加害したがその目的を遂げなかった所為は、尊属殺人未遂罪にあたる」と判示している(昭和三〇年(あ)第四〇〇号同三一年六月一二日第三小法廷判決、集一〇巻六号八一〇頁参照)。この趣旨は、特に解説するまでもなく社会常識の命ずるところであって、前記設例の場合についていえば、時間の計算からいって明らかに配偶者が死亡した後その直系尊属を殺害したのであっても、それが両者いずれをも殺害する意思をもって同一機会に行われたものと認められるかぎり、尊属殺人が成立すると解することにほかならない。けだし人の行為は、単なる外界の事実と異なり、人の意思に基くものであるから、これによって生ずる人事、社会の諸現象が法律上の評価の対象となった場合は、温度や距離のように計数によってのみこれを定めることはできないからである。そして右判例にいう同一機会とは、時の関係において必しも常に両者が直結することを要するものではなく、その前後の限界をいかに解すべきかは、これまた各個の場合における社会通念と良識との判断に従うべきものである。

弁護人永田安吉の上告趣意第一点についての裁判官田中耕太郎、同小谷勝重、同池田克の反対意見は、次のとおりである。

親族の範囲、親系、親等等親族に関する基本的事項は、すべて民法の定めるところである。従って、親族関係の法律上の効果に関する事項も亦、民法、就中その親族編に規定されているところであるが、他の法令中にも、これに関する規定がある。例えば、訴訟法においては、裁判官の除斥、証人の証言拒絶権、被害者保護のための告訴権等の原因となっており、刑法においても、犯人蔵匿、証憑湮滅、窃盗、詐欺、恐喝、横領及び賍物に関する罪につき、それぞれ刑の免除の原因となっているばかりでなく、特定の親族関係を有する者に対する罪については、これを刑の加重原因としているのであって、いずれも親族関係の法律上の効果と見るべきものである。これを本件に即していえば、刑法二〇〇条が「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」るものとしているのは、まさに、このような特定の親族関係の刑法上の効果を規定したものに外ならない。

ところで、同条にいわゆる「自己又ハ配偶者」と「直系尊属」との関係は、もとより法律上の関係であって事実上の関係ではない。そして、その法律上の関係が民法の規定によって定まるものであることは、それらの用語が、いずれも民法上の概念によっているという理由からばかりでなく、少くとも旧刑法(明治一三年太政官布告三六号)以来の沿革に徴して疑いを容れないところである。すなわち、旧刑法は、現行刑法と同様に親族関係の効果と見るべき多くの規定を設けていたが、その制定当時には未だ民法が行われていなかったため、その総則中に特に「親属例」の一章を設けて親属に関する解釈の基準を明示しておいたところであって、「祖父母、父母ニ対スル罪」の一つとして「子孫、其ノ祖父母、父母ヲ謀殺、故殺シタル者ハ死刑ニ処ス」る旨を規定した三六二条のいわゆる「子孫」も「祖父母」も「父母」も、すべて右「親属例」の規定するところに従って解釈されていたのであるが、現行刑法は、親族の関係、名称等は、その制定当時すでに行われていた民法第四編親族(明治三一年法律九号)の定めるところに従うこととして旧刑法の「親属例」に相当する一章を設けなかったばかりでなく、右三六二条一項を補修して「自己又ハ配偶者ノ直系尊属」としたのであって、刑法二〇〇条は、実に右のごとき沿革のもとに定められたものである。

そこで、本件の審査において最も重点をなす姻族関係について、民法の規定するところを明らかにしなければならない。もとより、姻族関係は婚姻の身分上の効果として生じたものである。いうなれば、配偶者を中心として、これと最も親近の生活関係をもつ者の一団の関係を指したものということができよう。そして、かような関係のもとにおいては、姻族関係は血族関係と同様に社会の習俗や道徳や情誼と密接なつながりをもち、それらによって規律されているのである。されば、後にも述べるとおり、民法の改正法律(昭和二二年法律二二二号)が姻族関係を規定するに際しても、右の点を軽視することができなかったところであって、況んや、刑法において、特段の理由もないのに民法の規定するところと異った解釈を採ることは、決して当を得たものではない。けだし、刑法二〇〇条が自己又は配偶者の直系尊属に対する殺人の所為を刑罰加重の特別構成要件としているのも、姻族のうち、直系姻族の関係にある尊属を直系血族の関係にある尊属と同様に重視すべきものとしたのに外ならないからである。

ところで、いうまでもないことであるが、配偶関係と姻族関係とは、いずれも婚姻によって生じた効果ではあっても、民法上必ずしも常に運命を共にするものではない。民法によれば、配偶者の一方の死亡により配偶関係は消滅するけれども、姻族関係は、生存配偶者が姻族関係終了の意思を表示する旨の届出をしたときにのみ死亡配偶者の血族との姻族関係を終了させることができるのである(民法七二八条二項、戸籍法九六条)。或は同条を規定するに当り、事を単に論理的に扱うことができたものとすれば、姻族関係も配偶関係と同様に配偶者の一方の死亡による婚姻の解消によって終了するものとされるべきであったかも知れないが、扶養、祭祀等の関係もあり、更には又、一般の習俗、道徳、情誼に対する斟酌もあって、婚姻の死亡解消の場合に姻族関係を直ちに消滅せしめることは、少くとも今日の国民の道義感情に合わないものとされたところであって、民法七二八条二項の立法経過は刑法二〇〇条の解釈をなすにつき重要な意義をもつものである。すなわち、配偶者の一方が死亡しても姻族関係が継続する限り、死亡配偶者の直系血族は生存配偶者の直系姻族であって生存配偶者の直系姻族たりし者ではない。刑法二〇〇条の「直系尊属」中に生存配偶者の直系姻族の関係にある尊属を含むものと解すべきこと正に当然の事理であるというべく、生存配偶者の直系姻族の関係にある尊属に対する道徳的義務が配偶者が現に存する場合におけると同じく重視されるべきことも亦言をまたないところである。

多数意見によれば、同条にいわゆる「配偶者ノ直系尊属」とは現に存する配偶者の直系尊属を指すのであって、配偶者が死亡し配偶関係の存在しなくなった後も、なお、その直系尊属との関係を認める趣旨でないと解するを相当とするというのであるが、右の場合においても、姻族関係がなお継続している以上、死亡配偶者の直系血族の関係にある尊属は生存配偶者の直系姻族の関係にある尊属である。多数意見のような解釈が刑法二〇〇条の沿革をかえりみないものであり、且つ、民法七二八条二項を正解したものといえないことは、すでに述べたとおりである。多数意見は、なお刑法二〇〇条の文理解釈の面から立言しているけれども、適切でないことは前に述べたところによって明らかである。

これを要するに、刑法二〇〇条の解釈としては、死亡配偶者の直系血族たる尊属も、生存配偶者からすれば姻族関係が終了しない限り直系姻族たる尊属というべきものである。本件のように生存配偶者が死亡配偶者の直系血族たる尊属を殺害しようとして未遂におわった場合を考えてみると、正に自己の直系姻族たる尊属に対する殺人未遂の罪として同条を適用処断すべきものといわなければならない。多数意見は、刑法は民法とその性格、目的を異にし独自の使命を有するという。もとより刑法には刑法独自の分野のあることを疑わないけれども、前にも述べたとおり、刑法二〇〇条は民法の定めた親族関係の刑法上の一つの効果を規定したものであるから、親族関係の基本的事項については民法の当該規定の定めるところに従うべきであって、それにも拘わらず刑法独自の解釈をなさんとするならば、それを合理的ならしめる特段の理由がなければならないのであるが、上叙したところによって明らかなとおり特段の理由がないのである。ただ、考えられるところは、尊属殺に対する刑法の法定刑が峻厳に過ぎるから、これを解釈によって緩和することも刑法二〇〇条の場合に限ってやむを得ないことではないかという主張である。しかし、その峻厳に過ぎる点の是正は須らく立法にまつべきであって、民法の定めるところを無視して解釈することは、決して正当ではない。

してみると、右と同趣旨に出でた原判決は相当であって論旨は理由がなく、本件上告は棄却すべきものである。

弁護人永田安吉の上告趣意第一点についての裁判官斎藤悠輔の反対意見は、次のとおりである。

自己又は配偶者の直系尊属であるか否かは、刑法二〇〇条の罪となるべき事実に属するものであるから、その犯罪成立当時における民事法規等によって判定すべきものであることは、当裁判所第一小法廷の判例とするところである(昭和二七年(れ)三四号同年一二月二五日裁判長裁判官沢田竹治郎、裁判官真野毅、裁判官斎藤悠輔、裁判官岩松三郎判決、判例集六巻一二号一四四二頁以下参照)。そして、そのことは、旧刑法一編一〇章親属例一一四条、一一五条を廃止して、現行刑法二〇〇条、二〇五条二項、二一八条二項等の「自己又ハ配偶者ノ直系尊属」なる法文を設けられた際、論議されたところによっても明白である(刑法沿革綜覧一六二〇頁以下、一七二八頁以下等参照)。本件で確定された事実によれば、被告人は昭和二六年一月八日夫佐野楽夫病死後同年四月三日午後五時頃殺害の目的で猫イラズをもって、楽夫の父長治、母マツノその他の者を毒殺しようとしたが、その目的を遂げなかったというのであるから、右長治、マツノが配偶者楽夫の直系尊属に当るか否かは、改正後の民法七二八条等によって判定すべきものといわなければならない。ところが、原審の確定したところによれば、被告人の夫楽夫は、前記のごとく昭和二六年一月八日死亡したが、被告人は姻族関係を終了させる意思を表示しなかったというのであるから、被告人と右長治、マツノとの姻族関係は、依然として存続するものといわなければならない。

そして、配偶者の直系尊属とは、田中、小谷、池田三裁判官の意見のとおり、民法所定の法律上の関係であって、直系姻族(民法七三五条参照)たる尊属を指すものと解すべきである。なぜなら、わが民族の社会観念においては、直系姻族親就中本件のような夫の父母若しくは外祖父母のごときは直系血族親と同視され、それが従来の慣習であり、あたりまえの人情であったからである。されば、仮刑律(人命律)、新律綱領(人命律上)、改定律例(一六八条)を通じて夫の祖父母、父母の謀殺を祖父母、父母の謀殺と同視し、仮刑律のごときは、これを八虐の第四の悪逆とし、新律綱領は、五等親図を定め夫の父母を二等親、妻の父母を五等親とし、旧刑法一一四条七号では、「配偶者ノ祖父母父母」を同条一号の「祖父母父母夫妻」と同じく「此刑法ニ於テ親属ト称スル……者」に加え、これらの親属例は、現行刑法において自己又は配偶者の直系尊属と規定された際、民事法の規定に委ねられ、刑法から廃止されたのである(旧刑法においても直系尊属を自己の直系尊属に限らず配偶者の直系尊属をも含みこれに対する殺人罪を旧刑法三六二条に当るものとする説のあることについては前記綜覧一七二八頁とくに倉富政府委員の正誤答弁参照)。そして、直系姻族親とは、もとより現在の直系姻族親を指し、過去の直系姻族親をいうものでないことはいうまでもない。改正前の民法七二九条二項は、夫婦の一方が死亡した場合において、生存配偶者がその家を去ったときは、姻族関係は止むものと規定していた(福岡高等裁判所昭和二九年(う)五八七号同年五月二一日判決では、旧民法では妻の死亡の場合の夫と妻の血族との間の姻族関係は当然に消滅すると解せられたとしているが、その誤であることは、大正五年四月一七日大審院第二刑事部判決、判決録二二輯六二六頁以下によって明らかであろう。)。また、「家」を廃止した現行民法の七二八条二項でさえも、同一場合において、生存配偶者が姻族関係を終了させる意思を表示したとき姻族関係は終了するものと規定している。刑法にいわゆる配偶者の直系尊属とは、かかる姻族関係終了後の配偶者の直系尊属を指すものではない。だから、配偶者の直系尊属を直系姻族たる尊属と解したからといって、多数説のいうように「配偶者」を「配偶者タリシ者」に拡張するとはいえないし、また、文理上少しも差支えなく多数説引用の法条はすべて適切でない。従って、本件では、楽夫の父長治、母マツノが被告人の配偶者の直系尊属に当ること明白であって、これを肯定した原判決は正当で、論旨はその理由がない。

しかるに、多数説は、沿革を知らず、人情を無視し、しかも、何等理由を示すことなく、刑法二〇〇条にいわゆる「配偶者ノ直系尊属」とは、現に存する配偶者の直系尊属を指すのであって、配偶者が死亡し配偶関係の存在しなくなった後も、なおその直系尊属との関係を認める趣旨でないと解するを相当とするといっている。つまり、夫又は妻の親は、夫又は妻が死亡すると、そのとたんに、刑法上親子の縁が切れて赤の他人となるというのである。すなわち、先ず自己の配偶者を殺害し(勿論既遂を指し、未遂をいうものでないこというまでもない。)、次で配偶者の尊属を殺害すれば、刑法上普通殺人のみとなるというのである。わたくしは、ただ唖然とするばかりであって、賛同できない。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己)

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